『ライティングの哲学』を読んで

千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太『ライティングの哲学』(星海社)を読んだ。

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野暮だと思うが、あとで読み直したいので、千葉雅也さんによる「あとがき」を一部引用する。

 

結果的に本書は、ちゃんとしなければという強迫観念からの解放、生産的な意味でだらしなくなることを目指すものになった。

 

自分はこう書く、こう書いてしまった、という結果に肯定否定どういう反応が起きるにせよ、堂々としていよう、ということである。勇気である。結局、周りに受けいれられるためにちゃんと書かねばというのは、「何事も起きなければいいのに」という防衛的なマインドなのであって、それは「外に出ていない」のだ。出来事が起きるかもしれない。それでいいのだ。(中略)偶然性に身を開いて書くのである。

 

これを読んで自分はどう書いてきただろうと思い出してみた。

 

大学院に進学した頃は教育哲学・思想を専門とするつもりだった。ところが、いろいろいろあって、煮詰まってしまった。とにかく書けない。ちゃんとしたもの(まわりに評価されるもの)を書こうと思うほど、「自分はなんて馬鹿なんだ」という自己ツッコミが強くなり、動けなくなる。早く書かねばと思うものの、「これだけ時間をかけたのだからまともなものを書かねば」と思い、更に書けなくなった。

 

気が付いたら、いい歳になっていた。私が院生の頃には多くはなかったが、今であればこの年齢であれば博士論文を提出している方も多いだろう。

 

紆余曲折のすえ、若者を対象とした共同調査をしているゼミに入りなおした。そこから少しづつ書けるようになった。先行研究をゼミで読み、質問項目を考えてはゼミで検討してもらい、基本的に2人以上でインタビューにいき、文字起こしをしたものを整理・分析したうえで、ゼミで発表し、「それは違う!」と言ってもらい、インタビューデータを繰り返し読み、修正したものをゼミで発表する。ひと段落すると、原稿執筆に入る。調査したものは必ず紀要に出すことになっていたので締切は決まっている。それに向かって必死に書く。書いている途中でまたアドバイスをもらう。この繰り返し。そして、締め切りまでに原稿を提出する。

 

この共同調査を行なうゼミは私にとって「認知的徒弟制」の場そのものといってよく、指導教員だけでなく、先輩や同期、後輩から多くのことを教わった*1

 

とにかく、ゼミでの共同調査を通じて少しづつ書くことができるようになった。締め切りが明確であり、その締め切りは自分が設定したものではなく、ゼミという他者との共同責任で設定したものであり、とにかく書かなければならない。締め切りが「外部」から設定されることのありがたさを強く感じた。また、そのゼミに入るまでは、書きだすまでに一人で悩み、書きだしてからも「おれは馬鹿か?」と自己ツッコミに苦しめられて書くことに異常に時間がかかった。しかし、ゼミに入ってからは、書く過程で指導教員やゼミのメンバーに開示することが義務になり、「とにかく書いてみてみんなから意見をもらおう」という気持ちになり、悩む時間が減った。共著で書くようになった影響も大きい。

 

現在、書くことをめぐる苦手意識はかなり軽減された(なくなったわけではない。書くことはずっととんでもなく苦しい)。いつも論文を書き終わると、「本当にこれでよかったのか?」「なんて自分は勉強不足なのだ」と外に出すことが恐ろしくなるのだが、「しゃーない。これが今の自分なのだから、おかしなところは真摯に反省して改善していこう」と思えるようになった。とはいえ、あくまで以前よりは、という話。中年になって良くも悪くも断念に慣れたのもあるだろう。とにかく、書くことを「中間報告」というか開かれたプロセスと捉えることができるようになった。

 

私が共同研究が好きなのは楽しいからなのだが、それだけではなく、他者への責任が発生することで研究をひとりで抱えこみすぎなくなり、それが研究を進めるうえでも精神衛生という点でもよいと考えているからでもある。

 

最後に。本書を読んで、自分の書き方を分析する必要があると強く感じた。研究時間の確保が難しい状況があるなかでそれでも研究するには、方法の工夫が必要なのは明らかで、このままではダメだと感じている。 もう一度WorkFlowyを導入してみるか、GoodNotesをもっとうまく使えないか等など。

*1:のちに、自分の授業で学生にインタビューをしてもらうようになったのもこの経験が大きい。