2020年後半の勉強会の記録

[前ブログの2020年12月24日の記事]

 

多くの方がそうであろうと思うが、2020年何をしていたのかよく覚えていないくらいバタバタで、もう年末ということで絶望している。どうにか生き延びることができそうなので、それはよかった。「もういい年齢なのだから自分の体を労わったほうがいい」と時々言われるが、セルフケアというものがよくわからず、またそんな気持ちもなかなかなれず、とにかく家族が無事にサバイブすること、仕事をどうにかまわすことで精いっぱいだった。

 

この1年はとにかくしんどかったが、R.E.M.マイケル・スタイプの曲「No Time for Love Like Now」には救われた。あと、最近ならテイラー・スウィフトボン・イヴェールの「exile」。

 

話をもとに戻すと、

 

2019年から続けている勉強会も今日で今年のぶんはお終い。

 

2020年後半は次のとおりです。

 

第16回:ピエール・ブルデュー編『世界の悲惨Ⅰ』藤原書店

第17回:文献検討をせず参加者の近況等を話す会

第18回:平山亮『介護する息子たち』勁草書房

 

これだけ…少ない。もっと読みたかった。

 

ただ、読んだ2冊はいずれも大変面白く、議論も盛り上がりました。2冊とも読み手である参加者自身の自己物語を誘発するところがある本で、『世界の悲惨Ⅰ』レジュメに次のような「感想」も書いた(一部抜粋)。今になっての反省だが、前半に読んだ磯直樹『認識と反省』ともう少し関連づけながら読めばより意義のある会になったと思う。

 

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 まず、読み物として抜群に面白い。演劇になっているようだが、私は映画の群像劇のようだと感じた。一人ひとりの自己物語とその社会的背景に焦点があてられ、次から次に「主役」が入れ替わっていく。

 ここで取り上げられている市井の人々は私たちの隣人であり、私たちの姿、私たちの人生そのものなのだろうと、思わずにはいられない。例えば、前半での隣人同士のトラブルの話。ワイドショーであれば「下層社会のご近所トラブル」というフレームで切り取り、面白おかしく“妙な”言動をする住民を描き、それを視聴者が笑い転げながら「他者化(悪魔化)」してオシマイとするであろうが、ブルデューらはそれぞれの人間の言動にそれ相応の理由というものが存在することを、その社会的背景ならびにバイオグラフィーから明らかにしていく。かれらの人生の軌道なり自己物語に強い影響を与えているのは、何よりも社会政策なのだ。

 

 社会学者ジョック・ヤングの言葉に次のようなものがある。

 

 他者を悪魔に仕立てあげることが重要なのは、それによって社会問題の責任を、社会の「境界線」上にいるとみられる「他者」になすりつけることができるからである。このとき、よくあることだが、因果関係の逆転が起こる。社会に問題が起こるのは、実際には、社会秩序そのもののなかに根本的な矛盾があるからなのだが、そう考えるのではなく、社会に問題が起こるのは問題そのもののせいだ、と考えるのである(Young1999=2007: pp.285-286)

 

 ブルデューらは自らの声を出す機会を与えられていない人々が声を「発見」できるように、インタビューという相互行為を通じて促し、それを個人的な事柄ではなく公共的・政治的・社会的な事柄として再配置していく=他者の悪魔化に抵抗する。この手つきの鮮やかさに私は驚嘆した(ある意味であざとさを感じるほどに。優れた脚本に優れた監督、優れた俳優等などと感じる)。本調査は、研究であると同時に誰もが他者にとって理解可能な自己物語を持っているということに気づかせ、それを通じて社会変革を起こそうとする政治的で野心的な抵抗運動であり、またそれがかなりの程度成功していると思われる。

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ともかく、研究どころか日々の暮らしの足元が崩壊しそうななか、どうにか勉強会を続けることができたのは、ありがたかった。2021年はもう少し読みたい。