ガート・ビースタ「よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか」

[前ブログの2014年6月12日の記事]

 

ガート・ビースタ(Gert biesta)ルクセンブルク大学教授による「Good Education: What it is and why we need it」を翻訳しました。翻訳はビースタ教授による許可をいただいております(私の拙い英文メールにも丁寧に応答していただいた!)。

なお、ビースタ教授のLearning democracy in School and Societyという著作は、2014年2月に『民主主義を学習する』(勁草書房)として翻訳・刊行されています。

なお、訳文中の下線強調は訳者である児島によるもので原文にあったものではない


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よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか


よい教育の必要性を主張することに議論の余地はない。しかし、詳しくみてみると、よい教育の理念が急速に別の概念に置き換わっているのがわかる。その一つは、効率的な教育という概念である。もう一つは、教育についてというよりも、むしろ学習について、生徒・学生の学習支援に関する教育的営為についてである。前者がよい教育の“よい”という概念に挑戦しているのだとすれば、後者は“教育”という概念に挑戦している。いったい私はなぜこれらのことを問題視するのか?
 
まず、教育の効率という点についての問いから始めよう。一見すると、効率的な教育という考え方に反対することは難しいが、効率的な教育がそのまま“よい”教育というわけではない。“効率的”とは過程についての価値である。すなわち、それはある目的・結果を引き起こす特定の過程の効力についての価値である。しかし、それはその結果が望ましいものかどうかとは関係がない。乱暴な例えになるが、効率のいい拷問方法と効率の悪い拷問方法があったとして、そのことが拷問自体を正当化できるのという事、また拷問自体が他の問題解決方法に比べて効率的かどうかは関係ない。ゆえに、問題となるのは、教育が効率的であるべきかどうかではない。意味のある問いとなるのは、教育が何に対して効率的なのかということである。加えて私たちが気をつけるべきは、ある生徒・学生にとって効率的であっても他の生徒・学生にとってはそうとは限らないという事実である。“何に対して効率的であるのか?”“誰にとって効率的なのか?”と問う必要があるのだ(Bogotch, Miron & Biesta 2007)。
 
近年、教育に関する事柄を学習という言葉で表そうとする傾向がある。以前の著作(Biesta 2010)で私は、教育の世界に“学習という新しい言語”が拡がっていることについて論じたことがある。生徒・学生を“学習者”という形で位置づけ、教えることを“学習支援・促進”として位置づけ直す、もしくは“学習経験の伝達”として再定義し、学校を“学習環境”、もしくは成人教育を“生涯学習”として位置づけなおすというものである。私はこうした拡がりを教育言説・実践の“学習化”(learnification)と呼んだ(Biesta 2010の1章を参照されたい)。こうした動向には問題があると思っており、あえて響きの悪い言葉を選んだ。さて、その問題とはなんであろうか。
 
端的にいえば、教育のポイントは生徒・学生が学ぶことそれ自体ではなく、かれらが何を学ぶのか、それを誰から学ぶのかということにあり、そしてそれをどんな理由で学ぶのかということにある。違う言い方をするならば、教育とは常に内容、関係性、目的についての問いを伴うものである。“学習”の言語は“教育”の言語とは大きく異なっている。それは、第一に学習は過程を意味するものであるが、教育は目的や中味に関心がもたれ、またそうあるべきものであるということだ。第二に学習は個人主義的で、個人化(individualizing)を促すような言葉である。あなたが「学習する」という時、それは常に自分だけが学ぶ行為を意味している。他方、教育はいつも教師と生徒の関係性をめぐる問題である(Biesta 2012)。加えて、私たちは“学習”が自転車を乗るのを学ぶこと、E=mc2であることを学ぶ、我慢することを学ぶ等全く異なる営みに及んでいることを認識するべきである。教育の論点は、生徒・学生が学習することや、教授が生徒・学生の学習支援をするという事だけではない。教育を学習に置き換えることは、その内容と目的についての論点をなくすも同然なのである。しかし、教育を取り巻く外部の影響によってこのような考え方が学校教育の中では氾濫しつつあるようだ。
 
“よい教育”について語ることは“効率”や“学習”という空虚な概念に対抗するために重要なことである。また、それはよき教育とは究極的には規範的な問いであって、技術的なそれではないことを強調するものである。それは専門的かつ民主的な熟議により、何をもって価値とするかの精査を必要とする。そのような熟議で最初に焦点があたるのは何か。鍵となるのは何のための教育であるのか、すなわち教育を通して、生徒・学生のために、そして生徒・学生とともに、何を達成したいのかということだ。教育において、目的についての問い自体からして多面的なものであると知ることは有益である。私が考えているのは、全ての教育は潜在的に、少なくても、三つの領域についてのインパクトを有しているということである。①資格(知識、技能、生徒・学生がある特定の能力を有することを保証する性質)②社会化(教育は私たちを伝統や生活・行動様式と結びつける)③主体化(教育は良きにつけ悪しきにつけ私たちの人柄もしくは主体化に影響を与える)。教育がこれら三領域のそれぞれに潜在的な“影響”を及ぼすのであれば、教育は三領域におけるそれぞれにおいて達成しようとするものへの責任を負うことになる。このことは何のための教育なのかという問いについて反省することになる。私達はこの三つそれぞれに少しずつ異なる方向へ引っ張られ、この三つの良い配分、意味のある配分とは何かについて考えさせられ、また、この三つの間でどんなトレードオフなら許容範囲内か模索させられる。私見では、教育は何のためになされるべきなのかと問うことは、効率的な教育もしくは学習の促進という言葉で教育を理解するという空虚な試みよりも教育に深さや意味を与えることになるだろう。
 
参考文献
Biesta, G. J. J. (2010). Good education in an age of measurement: Ethics, politics,democracy. Boulder, CO:Paradigm Publishers.
 
Biesta, G. J. J. (2012). Giving teaching back to education:Responding to the disappearance of the teacher. Phenomenology & Practice, 6(2), 35-49. 
 
Bogotch, I., Mirón, L & Biesta, G. (2007). “Effective for what; Effective for whom?” Two questions SESI Should Not Ignore. In T. Townsend (Ed.), International handbook of school effectiveness and improvement (pp. 93-109).

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ビースタ教授の著作や論文は以前から読んでおり(以前書いたものの中で「ゲルト・ビエスタ」と私は書いていたが…)、自分の勉強のために時々抄訳を作っていた。なぜこちらを翻訳したのかというと、職務柄、“学習という新しい言語”に向き合うことが多く、それについて思考し、自分の授業においても模索を続ける一方、それが何処を目指したものなのかを確認したいという気持ちを日頃から強く持っており、その中でこのエッセイに出会ったという経緯になる。