神代健彦『「生存競争」教育への反抗』の感想

[前ブログの2021年2月18日の記事]

 

*以下、勢いでバーッと書いたものなので、整理が出来ていない。あとで加筆・修正するかもしれない。

 

大変に面白かった。

 

現代における教育という営み、あるいは教育に関する欲望がどのような状況に置かれているのかが明晰に描かれていると感じた。「そうそう、そういうことを言いたかったのだ!」と思うところが多々あった。

 

著者が主に批判対象とするのは次のことである。子供・生徒がこの社会で勝ち抜く(サバイバルする)にはいかなる教育を行なえばよいのか(①)、またこの社会に貢献するための教育をどのように行なえばよいのか(②)という発想でしか教育を考えることができない精神の“貧しさ”である。①②は、●●力を育成することがその子供・生徒にとってよきことであり、かつ社会にとってもよいことであるという考え方をする(●●には論者によって様々なバージョンがありうる)。例えば、社会は不確実性を増しているという主張をもとに、では、不確実性の高まる社会を生き抜くためには●●力を子供・生徒につけましょう!と演繹的に導きだされる。こうした●●力は「コンピテンシー」と呼ばれることが一般的だ。

 

もっとも、著者は「コンピテンシー」を育成すること自体を批判しているわけではない。学んでいることが将来役に立つと同時に、社会に役立つことは重要であると何度も書いている。上述したように、教育を考えるうえでの、今・未来の社会では●●になる→では、子供・生徒に●●力をつけましょうという〈目的→手段〉の結びつきの強さをこそ問題視しているのだ。

 

では、どういった形で今・未来の社会では●●になる→では、子供・生徒に●●力をつけようという〈目的→手段〉という考え方を批判しているのかというと、子供・生徒は何を学ぶのか(学ぶべきか)という議論を飛ばして、どのように●●力をつけるのかという訓練主義的(著者の言葉ではない)発想に囚われていることが問題だとされる(著者の議論とも重なるが、英語圏ではいわゆるコンピテンシー・ベースの職業教育への批判がある)。これは、例えばイギリスの教育社会学マイケル・ヤングが「力のある知識(Powerful Knowledge)」という概念を用いてカリキュラムをめぐる議論を再構築しようとしている動きにも重なるようにも思われる(もっともヤングが主に批判しているのは、社会構成主義的/相対主義的な知識観に基づく議論のはずだが)。

 

そして、著者は、「教育に世界(コンテンツ)を取り戻す」ことが重要とする。教科教育の枠組みを参照しながら、著者は次のように書いている(p.166)。

 

国語の授業を通して、豊かな日本語の世界に出会わせる。

算数・就学の授業を通して、抽象的な数や形の世界に出会わせる。

理科の授業を通して、自然や科学の世界に出会わせる。

社会の授業を通して。子どもたちを人間の歴史的・社会的な営みに出会わせる。

 

こうなると、実際に教壇に立つ教師や教育システムの反省理論たる教育学にとってはお馴染みの議論となる。すなわち、子供・生徒と世界を、教え学ぶという営みの中でどう意味ある形で出会わせることができるのか、という議論である。日本においては教師が自身の教育活動を「教育実践」として反省的に記述してきた分厚い歴史がある。著者は、●●力をどのようにつけるべきかという議論からは距離を置き、「教育実践」をめぐる分厚い歴史のなかに教育の議論を引き戻そうとしているように思われる。

 

他方、著者は次のように書いている(pp.115-116)。

 

教育は、正確には、わたしが主張する「世界との出会いとしての教育」は、人的資本の育成によって供給サイドから市場経済に貢献することはできないかもしれない。また、「小さな企業家」を「量産」して市場そのものを変容させる望みも薄い。しかし少なくともその理念は、人々の消費の完成を育てることを通じて、需要サイドから経済に貢献するという可能性をはらんでいる。

 

そして、著者は消費者を育てる教育こそが重要と論を進める。すなわち、教育にとって経済領域は無視できない。が、●●力をつけるという議論枠組みには乗りたくない(著者はこうした議論が「人的資本」蓄積に関する教育と位置付けている)。が、経済領域はやはり無視できない。そこで、消費者としての教育であればいいのではないかとする(ただし、著者のいう消費は経済学でいうところの消費以上に広い意味を持たされている点は注意すべきだろう)。私は経済学について不勉強なので間違ったことを書くかもしれないが、著者はこの約20年間の日本経済の落ち込みを供給サイドではなく需要サイドの問題として捉える議論(例えば飯田泰之先生が主張するような)を強く意識したうえで、この議論との接続を、上述の議論に重ね合わせたうえで扱おうとしているのだと思われる。ただ正直なところ、なぜ消費(者)を持ち出す必要があったのか、まだ理解しきれていない。教育と経済は、〈供給/消費〉というモデルでうまく接続するのだろうか。著者の議論の問題というより、私が不勉強なだけかもしれない。

 

また、違う角度からの疑問というか、著者に教えていただきたいことがある。子供・生徒がこの社会で勝ち抜く(サバイバルする)にはいかなる教育を行なえばよいのか、またこの社会に貢献するための教育をどのように行なえばよいのかという発想でしか教育を考えることができなくなっているとして、そうした事態を大きく変えるには、教育に世界(コンテンツ)を取り戻すということだけではなく、教育への過剰とも思われる社会的期待を解除する必要があるのではないだろうか。それは、教育を受けなくてもそれなりに安定・安心して暮らしていけるという制度(社会保障等)をよりよい形で構築することに繋がらないだろうか。教育の外部こそ豊かに保障されなければならないのではないだろうか。教育に世界(コンテンツ)を取り戻すということも、教育に何もかも期待する(押し付ける)教育外の状況があれば、子供・生徒と世界との豊かな出会いもまた〈目的―手段〉という中に落とし込められ、子供・生徒はどれだけ豊かな出会いをしたのかアセスメントしましょう、となるように思われる。教育に世界(コンテンツ)を取り戻すという発想は、教員養成に関わる著者の責任感の表れであるようにも思えるが(いわゆる反教育、反学校教育的な議論に進むのではなく、あくまで現在の学校教育の中で正面から受け止めようという姿勢は素晴らしいと皮肉ではなく思う)、著者の構想が豊かに実現するためには、教育の外が豊かに(私自身こうした曖昧な言葉でしか語ることができないことに苛立ちを覚える)保障されている必要があるように思う。

 

ともあれ、疑問というか著者に教えていただきたいことがたくさん出てきた本であるが、素晴らしい本だという感想は全く変わらない。「休日のための教育と教育学」という着想には全面的にのりたい!(個人的には、「おわりに」に書かれている勝田守一先生の再解釈には強く惹かれた)著者と一緒にどうすれば、教育を窮屈ではない形で構想できるか考えたい。