キャリア教育の難しさ

定期的に村井実『教育学入門(上)(下)』(講談社学術文庫)を読み直している。教育活動を振り返るときにとてもよい本だと思う。古書でしか入手できないのがもったいない。せめて電子書籍化してくれたらいいのに。

 

同書(下)に「教職と教師の問題」という章があり、「パラドックスとしての教育」という節がある。少し長くなるが、一部を引用したい。

 

教育とは、もともと、子どもたちを「善く」する働きである。だが、では「善さ」あるいは「善くする」とはどういうことであるかと自ら問うとき、私たちはだれも、絶対的な確信をもってそれに答えることはできない。それにかかわらず、私たちは、子どもたちを「善く」する意図をもって、不断に子どもたちに働きかけないではおられない。「善い」人間、「善い」知識、「善い」社会、そうしたもののどれについても、私たちは確定的な答を与えることはできない。それにもかかわらず、私たちは、子どもたちが「善い」人間であり、「善い」知識をもち、「善い」社会、「善い」生活を営むことを願わないではおれない。それが教育というものなのである。

 

だが、このばあい、「善く」するという以上は、「善さ」あるいは「善く」することが何であるかをあらかじめ知っていなければならないというのが常識の立場であろう。(中略)ところが、これに対して、人間としての「善さ」あるいは「善い」生き方を教えようとする教育(中略)においては、「知っていないけれども教える」「知っていないからこそ教える」ということの正しさもまた認められないわけにはいかない。ここに、教育の基本に、パラドックス的な状況が成立することになるのである。(pp.143-144)

 

 

私はちょっとした縁で(?)キャリア教育に関わることが多かったのだが、キャリア教育の難しさの一部は村井のいう「パラドックス的な状況」が先鋭的な形で現れるからだろうと考えてきた。

 

生徒・学生の「将来」は教師にとってよくわからないが、それでもキャリア教育は生徒・学生の「将来」に向けて働きかけを行わなければならない。生徒・学生の「将来」がよくわからないからこそ、村井がいうところのパラドックスを‟停止”させるために「これからの社会に必要なのは〇〇力だ!」という汎用的能力言説が接合されやすいのだろう。

 

村井は次のように言う。

パラドックスを自覚するかぎり、すべての教師は、ソクラテスのいわゆる、「善さ」についての無知の知をもって活動することになる。つまり、自分の仕事についての十分なおそれとつつしみをもって、子どもたちとともに、自然についても、人間についても、社会についても、どうしてもその「善い」理解、より「善い」理解が得られるかを、子どもたちとともに探し、ともに求めていくことができる。

 

このばあい、子どもがもつべき知識についても技術についても、心得るべき人間や社会のあり方についても、彼はどこまでも子どもの友人であり、共同の探求者であって、けっして「善さ」についての専制者ではありえない。(p.145)

 

わからない以上子どもとともに探求していきましょうということだ。「そうはいってもシラバスを作成しなければならないし、評価基準も明確に設定しなければいけないし…」と思うのだが、ともかく、こうした姿勢は忘れずにいなければと思う。


さて、後期授業はどうしよう。