デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』の感想

[前ブログの2021年2月12日の記事]

 

管理人(?)を務める勉強会で、評判のデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)を読んだ。以下は、その一部になる。本当にざっくりした感想。

 

■「何を根拠にそう言っているのだ?」「本当だろうか?」という気持ちが最後までなくならなかった。要するに雑ではないかということだ。グレーバーが議論の出発点としているデータ、およびそれについての記述を見てみよう。「自分の仕事が世の中に意味のある貢献をしていると確信している人間は、フルタイムの仕事にある人びとの50%しかおらず、37%の人びとは貢献していないとはっきり感じていた。(中略)これは驚異的な統計である。」(pp.22-23)ここで既に躓く。私であれば、「はい(IS)」と回答する人が50%もいることに驚く(https://yougov.co.uk/topics/lifestyle/articles-reports/2015/08/12/british-jobs-meaningless)。書籍には掲載されていないが、この同じ調査では仕事への満足度も聞いている。結果を見ると、およそ63%の人が肯定的に回答している。グレーバーにはもう少しこの調査を掘り下げてほしかった。少なくても私であれば、「いいえ(Is not)」と回答した人が仕事の満足度にどう回答しているのか、その属性とそれ以外の要因とを関係づけて考察してみる。経験的な社会科学者であれば、おそらくほとんどの者がそうするのではないか。

 

■グレーバーの「定義」するブルシット・ジョブにはあまりに多くの仕事が含まれており、それぞれの仕事にそって分析がなされるべきであろう。ともあれ、グレーバーがブルシット・ジョブとして主に想定しているのは管理運営系の業務をする人々であろう。そうであるとすると、その問題は、例えば近代社会における官僚制の問題(ヴェーバーマートン)ではないかとも思える。近代社会が進むということは、人々が官僚制に組み込まれる形で働くことを意味するはずだ。他方で、近代資本主義社会は分業が進む社会である。すなわち、私たちはその労働において一種「疎外」されることとなる。グレーバーのいうブルシット・ジョブの問題は、官僚制化の亢進、社会的分業の亢進、そしてミュラーが『測りすぎ(THE TYRANNY OF METRICS)』で示したようなあらゆる事柄を測定し、評価しようとするイデオロギーがごちゃごちゃになって生じていることではないか、と考えられる。これらについては膨大な先行研究がある。ブルシット・ジョブを打破するのであれば、これらの研究を参照してこそ、ブルシット・ジョブという敵を打ち倒せるのではないだろうか。

 

■グレーバーの議論の粗さはともかく、自分が今後何らかの形で社会調査を行なうとき、この種の質問を入れてみたいと思った。仕事の満足度を聞く調査は多いが、「あなたの仕事は世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問は見たことがない。どのような結果になるだろうか。この回答をもとにいくつかのクラスターを構成して、更に分析を重ねることができるはずだ。そうすれば、社会科学の一般的な手続きにのった形でグレーバーの議論を前進させることができるはずだ。

 

■今の大学教員(もちろんこの中に多様性があるにせよ)の仕事の一部もブルシット・ジョブになるのだろう(実際グレーバーはこのような論稿を書いている)。佐藤郁哉大学改革の迷走』(ちくま新書)は一つの証拠になっているように思う。なぜ大学教員がそうした仕事をしなければならないのかというと、基本的にはこの業界で食っていくためだろう。グレーバーはベーシック・インカムにより「生存」と「労働」を切断することで、ブルシット・ジョブを変える提案を行なっている。ただ、具体的な制度設計の議論抜きにベーシック・インカムの議論を「最後の切り札」的に出されると、正直なところ絶望的な気持ちになる(なお、ベーシック・インカムが無意味と言いたいのではない)。違う道はないのだろうか。ブルシット・ジョブがある種労働条件の話なのであれば、労働組合や労働運動の話にも接続が可能ではないだろうか。私は、例えば熊沢誠先生であれば、グレーバーの議論にどんなコメントをするだろうと考えた。

 

■「自分の仕事に意味がないと感じながらも、まるでそうではないかのように取り繕う必要がある」という状況は、例えば目に見える「成果」を提示できなければ仕事をしていると認められないという労働環境や組織文化があるからだろう。ここで思い出すのは、イギリスの教育社会学者のスティーブン・ボールの「The Teacher's Soul and the Terrors of Perfomativity​」である。大変に面白い論文で、かつ私の好きな論文なのだが(タイトルも好き)、要するに教師に対して目に見えるわかやすい「成果」を示せと迫る圧力が、教師(の矜持)をどう変えるかという内容である。こうした「成果」を迫る圧力の背景には、学校なり教師への「不信」がある。かなり前に読んだ本なので記憶が怪しいが、ポーター『数値と客観性』においてもそのような記述があったように思うが、要するに専門家への「不信」が目に見えるわかりやすい(数値として示される)「成果」を求めるという圧力へと変換されるのだ。組織の中におけるブルシット・ジョブの背景には、「本当におまえは仕事をしているのか?」という「不信」があるのではないだろうか。そうだとすれば、ブルシット・ジョブを変えていくには、組織における「信頼」をいかに育むかという問題もあるのではないだろうか。