ロザリンド・ギル「沈黙を破る―新自由主義化する大学の”隠された傷”」の訳者解説

[前ブログの2021年3月10日の記事]

 

かつての同僚である竹端寛先生(兵庫県立大学)と以下の論文を翻訳しました。

 

ロザリンド・ギル「沈黙を破る――新自由主義化する大学の‟隠された傷”」『法学論集』第87号

 

訳者解説にも書いたように、昨年3月中旬段階である程度出来ていたが、その後私が大きく体調を崩し、作業を続行できず、締切りを過ぎてしまったためにこの時期の刊行になってしまった。それによって訳文を全面的に見直す時間ができたので、少しでもよいものになっていればと思う。

 

内容は決して難解なものではない。要するに、研究者として大学で働く者が大学で働く中で、また研究者として学術の世界で働くうえで経験することや感情(特に否定的感情)に焦点をあてたものを、ギルさん自身の経験もまじえながら書かれたものだ。

 

訳者解説の一部を引用したい。

 

***[児島担当部分]

職場だけではなく自宅やカフェで土日祝日関係なく仕事のメールをする、時には布団の中でも仕事のメールをスマートフォンでチェック、査読付きジャーナルに投稿して掲載拒否されることやそれに伴う強い否定的感情、会議資料の作成や授業準備が終わったのが深夜であったとしても、「さて、ようやく研究ができる」とばかりに睡眠時間を削って早朝にかけて研究、疲れ果てているのに土日開催の学会に参加して報告等など。大学で働く多くの研究者が同じような経験をしていると思われるが、こうしたことは研究者の「個人的なこと」とされ、高等教育研究では大きな関心を集めることはなかった。

 

しかし、多くの研究者がこのことに関心がないわけではないはずだ。一般化には慎重であるべきだが、私の経験からも、例えば職場や研究会で研究者が集まると「仕事の忙しさ」の話になり、「いつどうやって研究をしているのか」という話題になることも多い。特に私を含む小さな子どもの親でもある研究者同士で話をすると、研究するためのまとまった時間が取れないこと、そうした時間が出来たとしても仕事や家事・育児等で疲れ果てて集中できないといった話題になることがとても多い。国立大学で働く友人は子どもを寝かしつけたあと、パートナーに子どものケアをお願いし、自分は深夜も営業しているファミレスに行き、そこで博士論文を執筆したと教えてくれた。任期なし(無期雇用)の教員になかなかなれないという悩みも求職中の知人から定期的に聞いている。私自身任期なし教員になったのは40歳を過ぎてからだった。何度も公募に出し、何度も「お祈り」されてきた。「この仕事は自分には向いていない」と思ったことも数えきれない。

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***[竹端担当部分]

私自身が子育てをしながらも、研究や教育の仕事を「うまくやる」ために、「懸命に働く」。自らの裁量労働に喜びと誇りを持って、仕事と遊びの時間の区切りをつけずに、例え土日祝日でも、空いている時間があればこまめに文献をチェックし、子どもが寝ている間にメールの返信や仕事の続きにとりかかり、それでも時間が足りずに同世代の研究者が著作を出し続けるのを横目で見ながら、「自分は無能力だ」と落ち込む。よく考えれば、 公立中学校の年生の時に、猛烈進学塾に入って、そこから偏差値的序列化を内面化させて以来、はや30年以上経ち、そのようなラットレース的な評価に、しんどいな、と感じつつも、そう評価されること自体は所与の前提というか、仕方ないこと、だと思い込んできた。大学院修了後、非常勤講師をしながら2年間で50の大学から不採用通知をもらったことや、博士論文提出時に論文や学会発表の少なさを批判された事がトラウマになり、 常勤職に就いてからの15年間は、publish or perish ではないけれど、仕事と遊びを切り離すことなく遮二無二インプットし、できる限りアウトプッ トし続けてきた。3年前に子どもを授かり、家事育児に必死になって、そ のサイクルが崩壊した時は、文字通り自尊心が崩壊しそうだった。そして 私は、様々な落ち込む事実に出会った時に、いとも簡単に「自分が不勉強だから」「読書量が足りないから」「英語を読むスピードが遅いから」「○○だから」と全て自己責任に落とし込んできた。そして、「もっと頑張らなければ」と、さらに歯を食いしばってきた・・・。

 

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この記事を書きながら「私のような未熟な研究者がこんなことを書いていいのか」と強い不安を感じているが、この論稿はまさにこうした感情に焦点をあて、それを「個人的なこと」ではないといったん理解してみましょうという形で議論を進めている(とはいえ、私が未熟なのは確かだとは思うが…それでも一生懸命やっているので許してください!と責められてもいないのに言い訳をしたくなる)。

 

この論稿では様々なことが扱われているが、重要と考えているのが「自己否定」的感情が学術の世界に蔓延しているという見立てである。学術の世界には私からすると「化け物」と感じるくらい優秀な方がたくさんいる。例えばtwitterを眺めていると、たくさんの優秀な研究者がおり、刺激的な話をしている。それを見て「研究ってやっぱりいいな」と思うのだが、他方で自分の力量との違いに愕然とすることも多い。院生の時点でそうした違いに自覚的であったが、なんとかこの世界でやってきた。上で引用した竹端さんの解説にもあるが、「自分が不勉強だから」という気持ちを常に持ち、それでも少しでもよくなろうと頑張ってきたつもりだ。ギルさんは、こうした「自己否定」が研究者に共有されている文化だと認識しており、その背景を探っている。

 

もちろんギルさん自身が注意を促しているように、研究者といっても多様であり、「みんなそうですよね」ということはないだろう。が、過剰とも思える競争的環境に多くの研究者が置かれ、自己否定的な感情に囚われる傾向があるのは確かではないだろうか。「だから?どうしろって?」という問いにギルさんのこの論稿が答えを出しているわけではない。ギルさんはあくまで問題提起をしているだけだ。私と竹端さんが今回訳したのは、ギルさんのこうした問題提起を学術の世界を考えるうえで、また自分たちのしんどさの背景を考えるうえで重要と考えたからだ。もっというと、少しでも研究しやすい環境にしたいと考えているからだ。

 

訳者解説の最後にも書いたように、ギルさんの問題提起が少しでも多くの方に届けばいいと思っている。

*読んでいただいたみなさま、ありがとうございます。とても嬉しいです。