「キャリア教育」と社会制度を結び合わせること

[前ブログの2014年7月3日の記事です]

現在「キャリア教育」の授業を担当している。オムニバス授業を含めていくつか担当しているが、以下の話は自分単独でやっている授業の一つについて。

 

「キャリア教育」担当になったのだが、さて何を扱うのかと悩んだ。気をつけねばと思ったのは、とにかく「就活の勝ち組へ!」と加熱させてばかりではいけないということである。就活が「成功」するのかそうでないのかは、当然のことながら学生の努力によってのみ決まるわけではなく、学生を受け入れる企業等の事情、そしてその背景としての社会経済状況があるわけで、学生の自助努力だけでどうにかなるわけでもないからだ。そうしたことがあるにもかかわらず、教育・支援という名のもと、学生の気持ちを焚き付けてばかりいると就活時に様々な挫折を味わったとき(多くの学生が程度の差はあれ味わうはず)、まさにその教育・支援が学生を追いつめることになりかねない。

また、こうしたことはそれまでの自分の授業からも感じてた。随分前になるが、大学で授業をもつようになった頃、「フリーター」をテーマとして取り上げたところ(そしてそれは自分なりに「フリーター=若者の自己責任論」への批判意識もあり)、「就活で絶対に正社員になります」との反応が学生から少なからずあり、自分が何を伝えようとしていたのか深く反省するきっかけになった。

現在は、労働状況について考えてもらうことも行なっているが(かつてとはやり方を変えているものの)、生活保護ベーシック・インカム(BI)についても扱うようになった。BIについて様々な議論があることは知っているが、社会保障制度についての授業ではないので丁寧に扱うことはできず、考えを深めるうえで至らない点があることも承知しているが、ともかく私たちの生活が労働のみによって支えられるわけではことをきちんと知ってほしいとの気持ちから、取り上げた。BIについて扱ったのは、尊敬・敬愛する新谷周平さんの論考「ベーシック・インカム構想と勤労倫理:制度の是非から社会の観察と関与へ」(『千葉大学教育学部研究紀要』58)を読んだこともその理由だった。

「キャリア教育」に求められているのは、どのような中身を持つものであれ、不安定化する社会状況を“したたか”“しなやか”にわたっていくために必要とされる「能力」を学生につけることだろう。しかし、現在の社会制度や経済状況を所与のものとしたまま、それにどう学生を「勝ち組」としてすべりこませるのかのみを「キャリア教育」が引き受けるとき、現在の状況の厳しさや理不尽さに適応し打ち勝てというメッセージしか発することができないのではないかと心配しているし、また「キャリア教育」担当の教員として悩んでいる。

1回目の授業冒頭、自分自身のキャリアをどう計画しても、それがどうなるのかはその時々の社会制度や経済状況によって影響を受ける以上、自分のキャリアを考えるうえでも社会制度等についてもしっかり考えていこうと伝えている。このように書ているからといって自信満々なのではなく、自分の「わかってなさ」を晒しているのではないかと恐ろしくなるが、ともかく現在そのように授業を行なっている。「キャリア教育」についてはいずれきちんとした形で文章を書きたいと思っている。