ロザリンド・ギル「沈黙を破る―新自由主義化する大学の”隠された傷”」の訳者解説

[前ブログの2021年3月10日の記事]

 

かつての同僚である竹端寛先生(兵庫県立大学)と以下の論文を翻訳しました。

 

ロザリンド・ギル「沈黙を破る――新自由主義化する大学の‟隠された傷”」『法学論集』第87号

 

訳者解説にも書いたように、昨年3月中旬段階である程度出来ていたが、その後私が大きく体調を崩し、作業を続行できず、締切りを過ぎてしまったためにこの時期の刊行になってしまった。それによって訳文を全面的に見直す時間ができたので、少しでもよいものになっていればと思う。

 

内容は決して難解なものではない。要するに、研究者として大学で働く者が大学で働く中で、また研究者として学術の世界で働くうえで経験することや感情(特に否定的感情)に焦点をあてたものを、ギルさん自身の経験もまじえながら書かれたものだ。

 

訳者解説の一部を引用したい。

 

***[児島担当部分]

職場だけではなく自宅やカフェで土日祝日関係なく仕事のメールをする、時には布団の中でも仕事のメールをスマートフォンでチェック、査読付きジャーナルに投稿して掲載拒否されることやそれに伴う強い否定的感情、会議資料の作成や授業準備が終わったのが深夜であったとしても、「さて、ようやく研究ができる」とばかりに睡眠時間を削って早朝にかけて研究、疲れ果てているのに土日開催の学会に参加して報告等など。大学で働く多くの研究者が同じような経験をしていると思われるが、こうしたことは研究者の「個人的なこと」とされ、高等教育研究では大きな関心を集めることはなかった。

 

しかし、多くの研究者がこのことに関心がないわけではないはずだ。一般化には慎重であるべきだが、私の経験からも、例えば職場や研究会で研究者が集まると「仕事の忙しさ」の話になり、「いつどうやって研究をしているのか」という話題になることも多い。特に私を含む小さな子どもの親でもある研究者同士で話をすると、研究するためのまとまった時間が取れないこと、そうした時間が出来たとしても仕事や家事・育児等で疲れ果てて集中できないといった話題になることがとても多い。国立大学で働く友人は子どもを寝かしつけたあと、パートナーに子どものケアをお願いし、自分は深夜も営業しているファミレスに行き、そこで博士論文を執筆したと教えてくれた。任期なし(無期雇用)の教員になかなかなれないという悩みも求職中の知人から定期的に聞いている。私自身任期なし教員になったのは40歳を過ぎてからだった。何度も公募に出し、何度も「お祈り」されてきた。「この仕事は自分には向いていない」と思ったことも数えきれない。

***

 

***[竹端担当部分]

私自身が子育てをしながらも、研究や教育の仕事を「うまくやる」ために、「懸命に働く」。自らの裁量労働に喜びと誇りを持って、仕事と遊びの時間の区切りをつけずに、例え土日祝日でも、空いている時間があればこまめに文献をチェックし、子どもが寝ている間にメールの返信や仕事の続きにとりかかり、それでも時間が足りずに同世代の研究者が著作を出し続けるのを横目で見ながら、「自分は無能力だ」と落ち込む。よく考えれば、 公立中学校の年生の時に、猛烈進学塾に入って、そこから偏差値的序列化を内面化させて以来、はや30年以上経ち、そのようなラットレース的な評価に、しんどいな、と感じつつも、そう評価されること自体は所与の前提というか、仕方ないこと、だと思い込んできた。大学院修了後、非常勤講師をしながら2年間で50の大学から不採用通知をもらったことや、博士論文提出時に論文や学会発表の少なさを批判された事がトラウマになり、 常勤職に就いてからの15年間は、publish or perish ではないけれど、仕事と遊びを切り離すことなく遮二無二インプットし、できる限りアウトプッ トし続けてきた。3年前に子どもを授かり、家事育児に必死になって、そ のサイクルが崩壊した時は、文字通り自尊心が崩壊しそうだった。そして 私は、様々な落ち込む事実に出会った時に、いとも簡単に「自分が不勉強だから」「読書量が足りないから」「英語を読むスピードが遅いから」「○○だから」と全て自己責任に落とし込んできた。そして、「もっと頑張らなければ」と、さらに歯を食いしばってきた・・・。

 

***

 

この記事を書きながら「私のような未熟な研究者がこんなことを書いていいのか」と強い不安を感じているが、この論稿はまさにこうした感情に焦点をあて、それを「個人的なこと」ではないといったん理解してみましょうという形で議論を進めている(とはいえ、私が未熟なのは確かだとは思うが…それでも一生懸命やっているので許してください!と責められてもいないのに言い訳をしたくなる)。

 

この論稿では様々なことが扱われているが、重要と考えているのが「自己否定」的感情が学術の世界に蔓延しているという見立てである。学術の世界には私からすると「化け物」と感じるくらい優秀な方がたくさんいる。例えばtwitterを眺めていると、たくさんの優秀な研究者がおり、刺激的な話をしている。それを見て「研究ってやっぱりいいな」と思うのだが、他方で自分の力量との違いに愕然とすることも多い。院生の時点でそうした違いに自覚的であったが、なんとかこの世界でやってきた。上で引用した竹端さんの解説にもあるが、「自分が不勉強だから」という気持ちを常に持ち、それでも少しでもよくなろうと頑張ってきたつもりだ。ギルさんは、こうした「自己否定」が研究者に共有されている文化だと認識しており、その背景を探っている。

 

もちろんギルさん自身が注意を促しているように、研究者といっても多様であり、「みんなそうですよね」ということはないだろう。が、過剰とも思える競争的環境に多くの研究者が置かれ、自己否定的な感情に囚われる傾向があるのは確かではないだろうか。「だから?どうしろって?」という問いにギルさんのこの論稿が答えを出しているわけではない。ギルさんはあくまで問題提起をしているだけだ。私と竹端さんが今回訳したのは、ギルさんのこうした問題提起を学術の世界を考えるうえで、また自分たちのしんどさの背景を考えるうえで重要と考えたからだ。もっというと、少しでも研究しやすい環境にしたいと考えているからだ。

 

訳者解説の最後にも書いたように、ギルさんの問題提起が少しでも多くの方に届けばいいと思っている。

*読んでいただいたみなさま、ありがとうございます。とても嬉しいです。

神代健彦『「生存競争」教育への反抗』の感想

[前ブログの2021年2月18日の記事]

 

*以下、勢いでバーッと書いたものなので、整理が出来ていない。あとで加筆・修正するかもしれない。

 

大変に面白かった。

 

現代における教育という営み、あるいは教育に関する欲望がどのような状況に置かれているのかが明晰に描かれていると感じた。「そうそう、そういうことを言いたかったのだ!」と思うところが多々あった。

 

著者が主に批判対象とするのは次のことである。子供・生徒がこの社会で勝ち抜く(サバイバルする)にはいかなる教育を行なえばよいのか(①)、またこの社会に貢献するための教育をどのように行なえばよいのか(②)という発想でしか教育を考えることができない精神の“貧しさ”である。①②は、●●力を育成することがその子供・生徒にとってよきことであり、かつ社会にとってもよいことであるという考え方をする(●●には論者によって様々なバージョンがありうる)。例えば、社会は不確実性を増しているという主張をもとに、では、不確実性の高まる社会を生き抜くためには●●力を子供・生徒につけましょう!と演繹的に導きだされる。こうした●●力は「コンピテンシー」と呼ばれることが一般的だ。

 

もっとも、著者は「コンピテンシー」を育成すること自体を批判しているわけではない。学んでいることが将来役に立つと同時に、社会に役立つことは重要であると何度も書いている。上述したように、教育を考えるうえでの、今・未来の社会では●●になる→では、子供・生徒に●●力をつけましょうという〈目的→手段〉の結びつきの強さをこそ問題視しているのだ。

 

では、どういった形で今・未来の社会では●●になる→では、子供・生徒に●●力をつけようという〈目的→手段〉という考え方を批判しているのかというと、子供・生徒は何を学ぶのか(学ぶべきか)という議論を飛ばして、どのように●●力をつけるのかという訓練主義的(著者の言葉ではない)発想に囚われていることが問題だとされる(著者の議論とも重なるが、英語圏ではいわゆるコンピテンシー・ベースの職業教育への批判がある)。これは、例えばイギリスの教育社会学マイケル・ヤングが「力のある知識(Powerful Knowledge)」という概念を用いてカリキュラムをめぐる議論を再構築しようとしている動きにも重なるようにも思われる(もっともヤングが主に批判しているのは、社会構成主義的/相対主義的な知識観に基づく議論のはずだが)。

 

そして、著者は、「教育に世界(コンテンツ)を取り戻す」ことが重要とする。教科教育の枠組みを参照しながら、著者は次のように書いている(p.166)。

 

国語の授業を通して、豊かな日本語の世界に出会わせる。

算数・就学の授業を通して、抽象的な数や形の世界に出会わせる。

理科の授業を通して、自然や科学の世界に出会わせる。

社会の授業を通して。子どもたちを人間の歴史的・社会的な営みに出会わせる。

 

こうなると、実際に教壇に立つ教師や教育システムの反省理論たる教育学にとってはお馴染みの議論となる。すなわち、子供・生徒と世界を、教え学ぶという営みの中でどう意味ある形で出会わせることができるのか、という議論である。日本においては教師が自身の教育活動を「教育実践」として反省的に記述してきた分厚い歴史がある。著者は、●●力をどのようにつけるべきかという議論からは距離を置き、「教育実践」をめぐる分厚い歴史のなかに教育の議論を引き戻そうとしているように思われる。

 

他方、著者は次のように書いている(pp.115-116)。

 

教育は、正確には、わたしが主張する「世界との出会いとしての教育」は、人的資本の育成によって供給サイドから市場経済に貢献することはできないかもしれない。また、「小さな企業家」を「量産」して市場そのものを変容させる望みも薄い。しかし少なくともその理念は、人々の消費の完成を育てることを通じて、需要サイドから経済に貢献するという可能性をはらんでいる。

 

そして、著者は消費者を育てる教育こそが重要と論を進める。すなわち、教育にとって経済領域は無視できない。が、●●力をつけるという議論枠組みには乗りたくない(著者はこうした議論が「人的資本」蓄積に関する教育と位置付けている)。が、経済領域はやはり無視できない。そこで、消費者としての教育であればいいのではないかとする(ただし、著者のいう消費は経済学でいうところの消費以上に広い意味を持たされている点は注意すべきだろう)。私は経済学について不勉強なので間違ったことを書くかもしれないが、著者はこの約20年間の日本経済の落ち込みを供給サイドではなく需要サイドの問題として捉える議論(例えば飯田泰之先生が主張するような)を強く意識したうえで、この議論との接続を、上述の議論に重ね合わせたうえで扱おうとしているのだと思われる。ただ正直なところ、なぜ消費(者)を持ち出す必要があったのか、まだ理解しきれていない。教育と経済は、〈供給/消費〉というモデルでうまく接続するのだろうか。著者の議論の問題というより、私が不勉強なだけかもしれない。

 

また、違う角度からの疑問というか、著者に教えていただきたいことがある。子供・生徒がこの社会で勝ち抜く(サバイバルする)にはいかなる教育を行なえばよいのか、またこの社会に貢献するための教育をどのように行なえばよいのかという発想でしか教育を考えることができなくなっているとして、そうした事態を大きく変えるには、教育に世界(コンテンツ)を取り戻すということだけではなく、教育への過剰とも思われる社会的期待を解除する必要があるのではないだろうか。それは、教育を受けなくてもそれなりに安定・安心して暮らしていけるという制度(社会保障等)をよりよい形で構築することに繋がらないだろうか。教育の外部こそ豊かに保障されなければならないのではないだろうか。教育に世界(コンテンツ)を取り戻すということも、教育に何もかも期待する(押し付ける)教育外の状況があれば、子供・生徒と世界との豊かな出会いもまた〈目的―手段〉という中に落とし込められ、子供・生徒はどれだけ豊かな出会いをしたのかアセスメントしましょう、となるように思われる。教育に世界(コンテンツ)を取り戻すという発想は、教員養成に関わる著者の責任感の表れであるようにも思えるが(いわゆる反教育、反学校教育的な議論に進むのではなく、あくまで現在の学校教育の中で正面から受け止めようという姿勢は素晴らしいと皮肉ではなく思う)、著者の構想が豊かに実現するためには、教育の外が豊かに(私自身こうした曖昧な言葉でしか語ることができないことに苛立ちを覚える)保障されている必要があるように思う。

 

ともあれ、疑問というか著者に教えていただきたいことがたくさん出てきた本であるが、素晴らしい本だという感想は全く変わらない。「休日のための教育と教育学」という着想には全面的にのりたい!(個人的には、「おわりに」に書かれている勝田守一先生の再解釈には強く惹かれた)著者と一緒にどうすれば、教育を窮屈ではない形で構想できるか考えたい。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』の感想

[前ブログの2021年2月12日の記事]

 

管理人(?)を務める勉強会で、評判のデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)を読んだ。以下は、その一部になる。本当にざっくりした感想。

 

■「何を根拠にそう言っているのだ?」「本当だろうか?」という気持ちが最後までなくならなかった。要するに雑ではないかということだ。グレーバーが議論の出発点としているデータ、およびそれについての記述を見てみよう。「自分の仕事が世の中に意味のある貢献をしていると確信している人間は、フルタイムの仕事にある人びとの50%しかおらず、37%の人びとは貢献していないとはっきり感じていた。(中略)これは驚異的な統計である。」(pp.22-23)ここで既に躓く。私であれば、「はい(IS)」と回答する人が50%もいることに驚く(https://yougov.co.uk/topics/lifestyle/articles-reports/2015/08/12/british-jobs-meaningless)。書籍には掲載されていないが、この同じ調査では仕事への満足度も聞いている。結果を見ると、およそ63%の人が肯定的に回答している。グレーバーにはもう少しこの調査を掘り下げてほしかった。少なくても私であれば、「いいえ(Is not)」と回答した人が仕事の満足度にどう回答しているのか、その属性とそれ以外の要因とを関係づけて考察してみる。経験的な社会科学者であれば、おそらくほとんどの者がそうするのではないか。

 

■グレーバーの「定義」するブルシット・ジョブにはあまりに多くの仕事が含まれており、それぞれの仕事にそって分析がなされるべきであろう。ともあれ、グレーバーがブルシット・ジョブとして主に想定しているのは管理運営系の業務をする人々であろう。そうであるとすると、その問題は、例えば近代社会における官僚制の問題(ヴェーバーマートン)ではないかとも思える。近代社会が進むということは、人々が官僚制に組み込まれる形で働くことを意味するはずだ。他方で、近代資本主義社会は分業が進む社会である。すなわち、私たちはその労働において一種「疎外」されることとなる。グレーバーのいうブルシット・ジョブの問題は、官僚制化の亢進、社会的分業の亢進、そしてミュラーが『測りすぎ(THE TYRANNY OF METRICS)』で示したようなあらゆる事柄を測定し、評価しようとするイデオロギーがごちゃごちゃになって生じていることではないか、と考えられる。これらについては膨大な先行研究がある。ブルシット・ジョブを打破するのであれば、これらの研究を参照してこそ、ブルシット・ジョブという敵を打ち倒せるのではないだろうか。

 

■グレーバーの議論の粗さはともかく、自分が今後何らかの形で社会調査を行なうとき、この種の質問を入れてみたいと思った。仕事の満足度を聞く調査は多いが、「あなたの仕事は世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問は見たことがない。どのような結果になるだろうか。この回答をもとにいくつかのクラスターを構成して、更に分析を重ねることができるはずだ。そうすれば、社会科学の一般的な手続きにのった形でグレーバーの議論を前進させることができるはずだ。

 

■今の大学教員(もちろんこの中に多様性があるにせよ)の仕事の一部もブルシット・ジョブになるのだろう(実際グレーバーはこのような論稿を書いている)。佐藤郁哉大学改革の迷走』(ちくま新書)は一つの証拠になっているように思う。なぜ大学教員がそうした仕事をしなければならないのかというと、基本的にはこの業界で食っていくためだろう。グレーバーはベーシック・インカムにより「生存」と「労働」を切断することで、ブルシット・ジョブを変える提案を行なっている。ただ、具体的な制度設計の議論抜きにベーシック・インカムの議論を「最後の切り札」的に出されると、正直なところ絶望的な気持ちになる(なお、ベーシック・インカムが無意味と言いたいのではない)。違う道はないのだろうか。ブルシット・ジョブがある種労働条件の話なのであれば、労働組合や労働運動の話にも接続が可能ではないだろうか。私は、例えば熊沢誠先生であれば、グレーバーの議論にどんなコメントをするだろうと考えた。

 

■「自分の仕事に意味がないと感じながらも、まるでそうではないかのように取り繕う必要がある」という状況は、例えば目に見える「成果」を提示できなければ仕事をしていると認められないという労働環境や組織文化があるからだろう。ここで思い出すのは、イギリスの教育社会学者のスティーブン・ボールの「The Teacher's Soul and the Terrors of Perfomativity​」である。大変に面白い論文で、かつ私の好きな論文なのだが(タイトルも好き)、要するに教師に対して目に見えるわかやすい「成果」を示せと迫る圧力が、教師(の矜持)をどう変えるかという内容である。こうした「成果」を迫る圧力の背景には、学校なり教師への「不信」がある。かなり前に読んだ本なので記憶が怪しいが、ポーター『数値と客観性』においてもそのような記述があったように思うが、要するに専門家への「不信」が目に見えるわかりやすい(数値として示される)「成果」を求めるという圧力へと変換されるのだ。組織の中におけるブルシット・ジョブの背景には、「本当におまえは仕事をしているのか?」という「不信」があるのではないだろうか。そうだとすれば、ブルシット・ジョブを変えていくには、組織における「信頼」をいかに育むかという問題もあるのではないだろうか。

ガート・ビースタ「よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか」

[前ブログの2014年6月12日の記事]

 

ガート・ビースタ(Gert biesta)ルクセンブルク大学教授による「Good Education: What it is and why we need it」を翻訳しました。翻訳はビースタ教授による許可をいただいております(私の拙い英文メールにも丁寧に応答していただいた!)。

なお、ビースタ教授のLearning democracy in School and Societyという著作は、2014年2月に『民主主義を学習する』(勁草書房)として翻訳・刊行されています。

なお、訳文中の下線強調は訳者である児島によるもので原文にあったものではない


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よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか


よい教育の必要性を主張することに議論の余地はない。しかし、詳しくみてみると、よい教育の理念が急速に別の概念に置き換わっているのがわかる。その一つは、効率的な教育という概念である。もう一つは、教育についてというよりも、むしろ学習について、生徒・学生の学習支援に関する教育的営為についてである。前者がよい教育の“よい”という概念に挑戦しているのだとすれば、後者は“教育”という概念に挑戦している。いったい私はなぜこれらのことを問題視するのか?
 
まず、教育の効率という点についての問いから始めよう。一見すると、効率的な教育という考え方に反対することは難しいが、効率的な教育がそのまま“よい”教育というわけではない。“効率的”とは過程についての価値である。すなわち、それはある目的・結果を引き起こす特定の過程の効力についての価値である。しかし、それはその結果が望ましいものかどうかとは関係がない。乱暴な例えになるが、効率のいい拷問方法と効率の悪い拷問方法があったとして、そのことが拷問自体を正当化できるのという事、また拷問自体が他の問題解決方法に比べて効率的かどうかは関係ない。ゆえに、問題となるのは、教育が効率的であるべきかどうかではない。意味のある問いとなるのは、教育が何に対して効率的なのかということである。加えて私たちが気をつけるべきは、ある生徒・学生にとって効率的であっても他の生徒・学生にとってはそうとは限らないという事実である。“何に対して効率的であるのか?”“誰にとって効率的なのか?”と問う必要があるのだ(Bogotch, Miron & Biesta 2007)。
 
近年、教育に関する事柄を学習という言葉で表そうとする傾向がある。以前の著作(Biesta 2010)で私は、教育の世界に“学習という新しい言語”が拡がっていることについて論じたことがある。生徒・学生を“学習者”という形で位置づけ、教えることを“学習支援・促進”として位置づけ直す、もしくは“学習経験の伝達”として再定義し、学校を“学習環境”、もしくは成人教育を“生涯学習”として位置づけなおすというものである。私はこうした拡がりを教育言説・実践の“学習化”(learnification)と呼んだ(Biesta 2010の1章を参照されたい)。こうした動向には問題があると思っており、あえて響きの悪い言葉を選んだ。さて、その問題とはなんであろうか。
 
端的にいえば、教育のポイントは生徒・学生が学ぶことそれ自体ではなく、かれらが何を学ぶのか、それを誰から学ぶのかということにあり、そしてそれをどんな理由で学ぶのかということにある。違う言い方をするならば、教育とは常に内容、関係性、目的についての問いを伴うものである。“学習”の言語は“教育”の言語とは大きく異なっている。それは、第一に学習は過程を意味するものであるが、教育は目的や中味に関心がもたれ、またそうあるべきものであるということだ。第二に学習は個人主義的で、個人化(individualizing)を促すような言葉である。あなたが「学習する」という時、それは常に自分だけが学ぶ行為を意味している。他方、教育はいつも教師と生徒の関係性をめぐる問題である(Biesta 2012)。加えて、私たちは“学習”が自転車を乗るのを学ぶこと、E=mc2であることを学ぶ、我慢することを学ぶ等全く異なる営みに及んでいることを認識するべきである。教育の論点は、生徒・学生が学習することや、教授が生徒・学生の学習支援をするという事だけではない。教育を学習に置き換えることは、その内容と目的についての論点をなくすも同然なのである。しかし、教育を取り巻く外部の影響によってこのような考え方が学校教育の中では氾濫しつつあるようだ。
 
“よい教育”について語ることは“効率”や“学習”という空虚な概念に対抗するために重要なことである。また、それはよき教育とは究極的には規範的な問いであって、技術的なそれではないことを強調するものである。それは専門的かつ民主的な熟議により、何をもって価値とするかの精査を必要とする。そのような熟議で最初に焦点があたるのは何か。鍵となるのは何のための教育であるのか、すなわち教育を通して、生徒・学生のために、そして生徒・学生とともに、何を達成したいのかということだ。教育において、目的についての問い自体からして多面的なものであると知ることは有益である。私が考えているのは、全ての教育は潜在的に、少なくても、三つの領域についてのインパクトを有しているということである。①資格(知識、技能、生徒・学生がある特定の能力を有することを保証する性質)②社会化(教育は私たちを伝統や生活・行動様式と結びつける)③主体化(教育は良きにつけ悪しきにつけ私たちの人柄もしくは主体化に影響を与える)。教育がこれら三領域のそれぞれに潜在的な“影響”を及ぼすのであれば、教育は三領域におけるそれぞれにおいて達成しようとするものへの責任を負うことになる。このことは何のための教育なのかという問いについて反省することになる。私達はこの三つそれぞれに少しずつ異なる方向へ引っ張られ、この三つの良い配分、意味のある配分とは何かについて考えさせられ、また、この三つの間でどんなトレードオフなら許容範囲内か模索させられる。私見では、教育は何のためになされるべきなのかと問うことは、効率的な教育もしくは学習の促進という言葉で教育を理解するという空虚な試みよりも教育に深さや意味を与えることになるだろう。
 
参考文献
Biesta, G. J. J. (2010). Good education in an age of measurement: Ethics, politics,democracy. Boulder, CO:Paradigm Publishers.
 
Biesta, G. J. J. (2012). Giving teaching back to education:Responding to the disappearance of the teacher. Phenomenology & Practice, 6(2), 35-49. 
 
Bogotch, I., Mirón, L & Biesta, G. (2007). “Effective for what; Effective for whom?” Two questions SESI Should Not Ignore. In T. Townsend (Ed.), International handbook of school effectiveness and improvement (pp. 93-109).

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ビースタ教授の著作や論文は以前から読んでおり(以前書いたものの中で「ゲルト・ビエスタ」と私は書いていたが…)、自分の勉強のために時々抄訳を作っていた。なぜこちらを翻訳したのかというと、職務柄、“学習という新しい言語”に向き合うことが多く、それについて思考し、自分の授業においても模索を続ける一方、それが何処を目指したものなのかを確認したいという気持ちを日頃から強く持っており、その中でこのエッセイに出会ったという経緯になる。

2020年後半の勉強会の記録

[前ブログの2020年12月24日の記事]

 

多くの方がそうであろうと思うが、2020年何をしていたのかよく覚えていないくらいバタバタで、もう年末ということで絶望している。どうにか生き延びることができそうなので、それはよかった。「もういい年齢なのだから自分の体を労わったほうがいい」と時々言われるが、セルフケアというものがよくわからず、またそんな気持ちもなかなかなれず、とにかく家族が無事にサバイブすること、仕事をどうにかまわすことで精いっぱいだった。

 

この1年はとにかくしんどかったが、R.E.M.マイケル・スタイプの曲「No Time for Love Like Now」には救われた。あと、最近ならテイラー・スウィフトボン・イヴェールの「exile」。

 

話をもとに戻すと、

 

2019年から続けている勉強会も今日で今年のぶんはお終い。

 

2020年後半は次のとおりです。

 

第16回:ピエール・ブルデュー編『世界の悲惨Ⅰ』藤原書店

第17回:文献検討をせず参加者の近況等を話す会

第18回:平山亮『介護する息子たち』勁草書房

 

これだけ…少ない。もっと読みたかった。

 

ただ、読んだ2冊はいずれも大変面白く、議論も盛り上がりました。2冊とも読み手である参加者自身の自己物語を誘発するところがある本で、『世界の悲惨Ⅰ』レジュメに次のような「感想」も書いた(一部抜粋)。今になっての反省だが、前半に読んだ磯直樹『認識と反省』ともう少し関連づけながら読めばより意義のある会になったと思う。

 

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 まず、読み物として抜群に面白い。演劇になっているようだが、私は映画の群像劇のようだと感じた。一人ひとりの自己物語とその社会的背景に焦点があてられ、次から次に「主役」が入れ替わっていく。

 ここで取り上げられている市井の人々は私たちの隣人であり、私たちの姿、私たちの人生そのものなのだろうと、思わずにはいられない。例えば、前半での隣人同士のトラブルの話。ワイドショーであれば「下層社会のご近所トラブル」というフレームで切り取り、面白おかしく“妙な”言動をする住民を描き、それを視聴者が笑い転げながら「他者化(悪魔化)」してオシマイとするであろうが、ブルデューらはそれぞれの人間の言動にそれ相応の理由というものが存在することを、その社会的背景ならびにバイオグラフィーから明らかにしていく。かれらの人生の軌道なり自己物語に強い影響を与えているのは、何よりも社会政策なのだ。

 

 社会学者ジョック・ヤングの言葉に次のようなものがある。

 

 他者を悪魔に仕立てあげることが重要なのは、それによって社会問題の責任を、社会の「境界線」上にいるとみられる「他者」になすりつけることができるからである。このとき、よくあることだが、因果関係の逆転が起こる。社会に問題が起こるのは、実際には、社会秩序そのもののなかに根本的な矛盾があるからなのだが、そう考えるのではなく、社会に問題が起こるのは問題そのもののせいだ、と考えるのである(Young1999=2007: pp.285-286)

 

 ブルデューらは自らの声を出す機会を与えられていない人々が声を「発見」できるように、インタビューという相互行為を通じて促し、それを個人的な事柄ではなく公共的・政治的・社会的な事柄として再配置していく=他者の悪魔化に抵抗する。この手つきの鮮やかさに私は驚嘆した(ある意味であざとさを感じるほどに。優れた脚本に優れた監督、優れた俳優等などと感じる)。本調査は、研究であると同時に誰もが他者にとって理解可能な自己物語を持っているということに気づかせ、それを通じて社会変革を起こそうとする政治的で野心的な抵抗運動であり、またそれがかなりの程度成功していると思われる。

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ともかく、研究どころか日々の暮らしの足元が崩壊しそうななか、どうにか勉強会を続けることができたのは、ありがたかった。2021年はもう少し読みたい。

2020年前半の勉強会の記録

[前ブログの2020年8月23日の記事]

 

はっ!もう8月末だ…ということで絶望しているが、ともかくスローペースで勉強会を続けてきた。

 

今年前半はとにかく新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のせいで色々出来なかった。昨年半ばに研究者としての今後数年間の計画なるものをたてたのだが、1年目からこけている。クランボルツの本でも読みなおそうかな…。それでも参加者のみなさまのおかげで数回だが勉強会を開催できた。なお、回数はこれまでの通算になる。

 

第12回:樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』作品社

第13回:杉田真衣『高卒女性の12年』大月書店

第14回:磯直樹『認識と反省性』法政大学出版局

第15回:巽真理子『イクメンじゃない「父親の子育て」』晃洋書房

 

第12回が2月、第13回が3月、第14回が6月、第15回が7月開催。4~5月は授業を含む大学の業務で忙しすぎて全く余裕がなかったので開催できなかった。ゲストという形で著者に参加いただいた回もあった。

 

次回は、ブルデューの『世界の悲惨』を読むことになっている。楽しみ。

2019年の勉強会終了

[前ブログの2019年12月18日の記事]

 

以下の書籍や論文を読んだり、参加者の研究経歴についてざっくばらんに話をした。

 

第1回:稲葉振一郎『社会学入門・中級編』有斐閣

第2回:Mario Luis Small "‘How many cases do I need? ’ On science and the logic of case selection in field-based research”

第3回:ハワード・S・ベッカー『社会学の技法』恒星社厚生閣

第4回:木下衆『家族はなぜ介護してしまうのか』世界思想社

第5回:山田哲也「不登校の親の会が有する〈教育〉の特質と機能」『教育社会学研究』第71集

    :山田哲也「PISA型学力は日本の学校教育にいかなるインパクトを与えたのか」『教育社会学研究』第98集

    :松田洋介「職業教育という〈教育〉言説」『〈教育と社会〉研究』第18号(PDF)

    :高橋均「差異化・配分装置としての育児雑誌」『教育社会学研究』第74集

   *B・バーンスティン祭り

第6回:小熊英二『日本社会のしくみ』講談社現代新書

第7回:久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』月曜社

第8回:ユーリア・エンゲストローム『拡張による学習』新曜社 

   *諸事情により中止

第9回:中西新太郎『若者は社会を変えられるか?』かもがわ出版

    :富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右社

第10回:ピエール・ブルデュー&ロイック・J・D・ヴァカン『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』藤原書店

第11回:参加者が研究キャリアと今後やりたいことについてざっくばらんに話す会

 

基本的な勉強会の進め方は、課題書籍について私と他の二人の参加者がハンドアウトを準備し、それをたたき台にして議論するというもの。本の選択は、主に私がその時に読みたいと思ったものだが、事前にいくつか候補を出して、参加者の反応を見て、決めることもある。

 

こうして見ると「結構読んできたな」と思う。参加者の研究領域は(社会科学という点での共通点はあるものの)異なっていて、それが生産的な議論に繋がったと感じている。異分野の研究者が集まるからといって領域越境的かつ生産的な議論になるとはかぎらないように思うが、少なくてもこの勉強会についてはよい方向に作用している。

 

また、強く感じているのは、研究の意欲を持続するには(少なくても私には)「仲間」が必要ということだ。私にとっては科研等の共同研究、そしてこの勉強会のような場があるからこそ、なんとか研究者(未熟な研究者だが)であることが出来ている。

 

ということで、来年も継続していく予定。可能であれば、書籍や論文著者に参加いただくという企画もやってみたい。